会社概要

会社名 株式会社 ブレイックス
所在地 大阪市中央区安堂寺町2-3-5 第18松屋ビル
TEL/FAX 06-6684-9965 / 06-6684-9964
受付時間 10:00~17:00(土・日・祝祭日を除く)
設立 平成18年5月17日
代表取締役 竹之下 勇美
主取引先銀行 三菱東京UFJ銀行/近畿大阪銀行
URL http://www.braix.jp/
事業内容

◆多文化対応食物・慣習情報提供サービス

◆ホテル・飲食店向け実践的英会話対応ソフト開発

◆企業向け英語翻訳・通訳サービス

◆幼稚園・保育園向け業務ソフト開発

◆日英対応ホームページ制作サービス

◆英会話および英語メール対応代行サービス

◆ハラール関係情報提供サービス


 現代ムスリム社会メモ

この欄では、日本社会に居住、または旅行客として来日している現代のムスリム(イスラーム教徒)の行動や考え方について、一般的な日本人が感じる疑問点や、またムスリムを理解するうえで必要ではないかと思う点について、ざっくばらんに記します。 筆者自身は、イスラームを学問的に研究した者ではありません。

しかし、古くからビジネス上や交友関係から、現代のムスリムと日頃触れ合う機会に恵まれてきました。

そこで、普通の日本人の目から、彼らと接していて、いろいろ聞見したことや、質問したりして得た知識、あるいは専門家の本を読んで、自分なりに今理解していることについて記します。 誤解や明らかな間違いがあれば、メールで率直にご指摘いただければ幸いです。

 ムスリム(イスラーム教徒)の服装と外見

イスラームを信じる人々(イスラーム教徒)をムスリムといいます。 男性を「ムスリム」、女性を「ムスリマ」と区別する場合もありますが、女性でも通常ムスリムと呼んでも差し支えないようです。

普通の日本人が、ムスリムを識別できるのは、まず服装と外見からではないでしょうか。 日本の街頭で見かける女性がヴェールや外衣で、顔や頭髪、あるいは身体全体を覆っていたら、ほぼムスリムです。 ムスリム女性が、身体の線がはっきりわかる外衣を着用することはめったになく、彼女たちの服は大方ゆったりとしています。 外衣の色は白か黒で、派手で目立つことはなく控えめです。

また、おおむね素顔か、あるいは化粧していても、薄化粧で目立つことはありません。 ただ、中近東やインド・パキスタンのかたは、男性に限らず女性も顔の彫が深い人も多く目が大きく、平板な顔が主流の日本では、否応なく目立ってしまうかもあります。 東南アジアのムスリム圏の女性は、おおむね地味な印象です。

その女性と連れ添っている男性がいたら、彼もほぼムスリムです。また、子供が一緒なら、その子供たちもムスリムです。 小さい女の子が、しっかりヴェールで髪や顔を隠しているのは、なんとなく微笑ましい感じがします。 ムスリム男性は、頭にターバンや、ムスリム特有の帽子(トルコ帽など)を被っている場合や、口ひげや顎髯を伸ばしている場合があります。彼らの着用する外衣もゆったりとしており、その外衣の色は白っぽいことが普通です。 その外衣は、派手さを避け、女性同様地味な印象です。男性の場合、ひげもきちんとそり、帽子も被らず、服装も普通の洋装のスーツやカジュアル服装をしている場合も多いので、外見だけでは、彼がムスリムとは判断できないことも多々あります。

 女性のヴェール

女性の頭部や顔を覆うヴェールは、イスラーム圏の地域により、その呼び方や着用方法は多様です。 また、同じ地域でも、女性の社会的活動の幅や慣習への依存度、その女性のイスラームへの信仰のとらえ方により様々のようです。 なぜ、とくに女性のムスリムが肌の露出を避ける根拠は、コーラン(最近は日本人でもアラビア原語に近い発音の「クル・アーン」を使用する人が増えています。)に次のような句があるからです。

「(女性は)外部に出ている部分は仕方ないが、そのほかの美しいところは人に見せぬように…」

「必ず長衣で身体を包み込んでいくように…」

特に、1979年に、ムスリム勢力によって王政が倒されたイランのイスラーム革命以降は、女性のヴェール着用率は高まってきたと言われますし、それは筆者も実感します。 イスラームに対する関心とそのイスラーム信徒として自覚が高まり、それがとくに女性のヴェールの着用率に表れているように思います。

ムスリム国家のすべてではありませんが、女性のヴェールの着用を強制しているか、あるいは熱心な信徒が、女性に強要しているケースもあるようです。

 ヴェールの役割と背景

一般に覆うものを意味するヴェールは、スカーフ、ヒジャ-ブ、ニカーフに分かれ、その覆う割合が増えていきます。 また、イスラーム圏でも、地域により、宗派により、さらに慣習や階層、個人の信仰にたいする考え方の違いが、いろいろなバリエーションを生みだしているようです。

基本的に、女性のヴェールは、女性が家庭内から外部社会に出た場合に、男性の興味本位の視線を受けるのを避け、不必要な性的刺激の発散を控えることを目的にしています。 女性の顔や髪の露出を防ぎ、女性の身体の線を強調することを避けているのです。 しかし、他方では、ヴェールで全身を覆うことで、その内に着用している服を隠す便利な機能もあります。 ヴェールを外衣として着用することで、中の服を隠し、仮に粗衣を着用していても、人目を憚ることのない、楽な面もあります。平たい言葉でいえば、「ボロ隠し」にもなっています。

次回は多彩な女性用ヴェールの種類について、述べます。 さらにまた、女性に限らず、地域によっては男性もヴェールをします。 この件についても、触れたいと思います。

 英語亡国論について

今、外国人観光客が東京や大阪など大都会の街角にあふれています。また都会を遠く離れた鄙びた町村にも様々な外国人旅行客を見かけます。 従来の欧米人、中国人や韓国人に加え、特に東南アジアのインドネシアやマレーシアなどイスラーム圏からの人々も目につくようになりました。 これらの人々との対話は、特別に多言語に堪能な人を除けば、ほとんど英語が共通語となります。 私たち日本人は、いままで、中学の3年間と高校の3年間、また、さらには大学での4年間やそれ以上と、結構な時間を英語習得に充ててきました。

しかし、いざ英語で会話するとなると、緊張で固まるひとが多いのが実情でしょう。 外国人の旅行者もそこは心得たもので、もっぱら地図アプリとにらめっこしながら観光地やホテルを探して旅している姿が目につきます。 実際に使える英語を、すなわち実際的な英会話を重視した力を養成するべく、小中高校も大学も大幅にカリキュラムや内容を改定するようです。 このように語学教育が英語に傾斜することに、とかくの批判があるのも事実です。

その反対の主な主張は、若い世代が英語を常用することで、日本語による思考力が衰退し、 日本固有の文化・慣習が破壊され、日本人固有の美風が喪失する。その結果、英語圏、特に欧米に都合のいい環境が醸成される。 つまり、これらの英語圏欧米諸国は、非英語圏に英語が広まる過程で、英語教育を通じ英語の講師派遣・教材開発で絶対的優位に立ち、財莫大な経済的利益を得る。 非英語圏の国民がネイティヴに適うわけはないのだから、これらの英語圏欧米諸国は、英語を介した英語帝国主義を形成するのだというものです。

英語帝国主義の形成を阻止するため、一般国民の英語教育を極力排し、母語日本語による 教育を充実させよ。英語を含む外国語の翻訳は、専門家集団に任せ、一般国民は彼らの翻訳した日本語によれば良いではないか。 明治初期に実際その通りの決断をして今の日本を築いたではないかと主張されています。

果たして、この議論は、正しいのでしょうか?

 現状では、国際間のコミュニケーション手段は英語である

まず、冒頭に述べたように、一般国民が現実に日常生活で、外国人との接触のない世界は消滅しています。 外国人に接する機会が一般庶民には縁のない、明治時代から戦前までの世界と、昨今は状況が大きく変わっているのです。好悪にかかわらず、外国人に向き合う機会が増えているのが現代の日本です。

外国人のとのコミュニケーション手段は、現状では英語しかありません。彼らに日本語を学べといっても無理な相談です。 日本語は世界の中で10番目程度にある大言語とはいえ、国際間の共通コミュニケーション用語にはなっていません。この現実は無視できません。

 インドなどと日本は歴史と言語事情が根本的に異なる

次に、主張される英語学習の弊害に、現地語でしっかり思考できない国民は、三流国に堕するというものがあります。 例として、インド・マレーシア・フィリッピンなど欧米諸国家のかつての植民地が挙げられます。植民地支配者が母語英語で教育した結果、現地の文化や伝統は破壊され、結果的にいまだにそこから抜け出さない原因であると。 すなわち、これらのかつての植民地国は、英語を共通語にしたから現地語での文化慣習が破壊され、思惟力さえも衰退したのであると。

これは、当時のインド・マレーシア・フィリピンの事情と、現代の日本を比較しようと する暴論です。民族が多岐にわたり、現地の言語も多種多様なこれらの国家と、実質単一の民族で単一の日本語を喋る極めて例外的な国家である日本との差異を無視しています。

インドでは現地の母語が今でも使われますが、その数が一説には1600にも及ぶと言われます。 当時は、現地語による確固とした現地語翻訳を行う専門職業家や文化人も希少で、支配者言語である英語を使用するのが効率的だったのです。英語を1600もの現地語に翻訳することは不可能です。 統治手段・コミュニケーション手段・教育手段として、逆に英語を共通語と定めるのは 合理的で効率的だったのです。

マレーシア、フィリッピンなども、民族は多岐に別れ、彼らの話す現地語も多様で、単一ではありません。 これは、インドと同様の事情があったのです。

国家としては一つの名称でも、そこにいる民族や話される言語は多様で複雑だったのです。 これは、現在でも変わらす、それゆえ、共通語として外来の英語を共通語とするのが、いわば平和的で効率的なのです。 ある国家で、特定の民族の言語を共通語に定めることは、他の民族の国内の反発と紛議を招き収拾がつきません。 英語を共通語にしたのは合理的理由があったのです。

英語化による、現地文化の破壊や思惟力の衰退は、説得力はありません。事実、インド・マレーシア・フィリピンは いまでも昔の文化や慣習は連綿として存在して貴重な観光資源になっています。現地の人は、英語・現地語を双方繰る人もいれば、現地語のみの人もいます。 むしろ、英語をきちんと学んだ人が、これらの国のリーダーとなり、新興国から先進国への発展を支えている面が強いでしょう。 英語化は、コミュニケーション手段として、先進国の情報や技術の導入に相応の貢献をしていると判断するのが素直な分析ではないでしょうか。

 英語は、コミュニケーション手段として効率的

日本語自体はもちろん、日本文化や習俗を、英語を通じて積極的に対外に発信するためには、現時点では、どうしても英語が都合がいいと思います。 何しろ、小中高校大学の学校教育を通じて、不十分とはいえ、英語の基礎概念は頭に残っているわけです。あとは、それを掘り起し鍛錬するだけですから。

発信する相手の母語(例えば、アラビア語)を習得するには、当然のことながら一部の語学センスのある人を除けば、相当の困難が待ち受けます。 発信相手も、英語を母語とする人以外は、英語を解することが多いわけですから、コミュニケーションツールとしての英語は、双方にとって優先語が高いのです。 もちろん、日本語と対極にある英語の学習を通じて、他の言語にも興味を抱く人も増えるでしょう。

日本社会で、たとえ英語が使われる頻度が高まっても、日本語そのものや日本文化の衰退を招くとは想像できません。日本人は、その好奇心・勤勉さに加え忍耐強さから、様々な海外文化を消化吸収してきました。 専門家に限らず、一般の人でも、いったん流れができると英語習得は効率的にうまくやると思います。 その手段の開発も日本人の手で拍車がかかるでしょう。気が付いたら、一般の人も、うまく英語を第二言語として使いこなしているのではないでしょうか。

英語脅威論は、杞憂に過ぎないと思います。 皮肉なことに、これらの英語脅威論を述べる論客には、欧米の大学留学経験者もいます。彼らは、その留学時代、いかにして現地で人々とコミュニケーションをとったのでしょうか? 会話ではなく、読み書きのみでは不可能だったはずです。筆者の興味をそそる点でもあります。


 ムスリムの食べ物

ムスリム(イスラーム教徒)の食べ物に関し、一般の日本人が連想するのは、「豚肉を食べない」ことと「酒を飲まない」ことではないでしょうか? 実際に、この二つは日常飲食するものに関することですから、ムスリムが大変気を配ることです。 これは、ムスリムの基本的な信条に関わることであり、常に神(アッラー)を意識しています。 すなわち、「神がお許しになったもの」と「神が禁止されたもの」を、ムスリム個人は日常的に 自覚して区別しています。

 ハラールとハラーム

「神がお許しになったもの」を「ハラール」、「神が禁じられたもの」を「ハラーム」といいます。 日本語では一字違いですが、全くの対立概念です。英語では、HALAL(ハラール)、HARAM (ハラーム)と表記します。英語やアラビア語での発音は、L音とR音です。しかし、日本人の苦手な L音とR音ですから、その真逆の意味とともに、発音上も気をつける必要があります。

このハラールとハラームの概念は、簡単にいうとのアラーのご意志に従い、事の善悪を決める重要な 概念です。飲食物だけに限るわけではありません。ある事柄の善悪判断に常に関わってきます。 ムスリムは、事物を常にハラールかハラームかで判断し、自己の行動規範としています。例えば、 衣服・食事マナー・家の装飾・保険の種類等など、実に多様なことに至って、ハラールかハラームか、 常に各個人は意識して判断します。判断に迷えば、モスクのイマーム(祈りの主導者)や、専門の イスラーム法学者に相談して、個人で決定します。それゆえ、微妙な領域では、各人やムスリム指導者 の判断が違う場合が出てきます。例えば、喫煙については、これを可とするか不可とするかは判断が 割れているようです。

次回から、ハラールとハラーム概念をムスリムの飲食物の範囲に限定して述べていきます。